67歳でもまだまだ現役のデザイナーが、忙しい日々からシンプルんな日々のくらしに根付いた制作活動をベースに、そのくらしのなかで出逢う人、旅先で出逢った人たちとのご縁によって作品が生まれるという人生の幸せに気づきました。だれでも、自分の好きなことをしながら生涯現役で生きる人たちへ

人と人をつないでくれるデザイン

はじめまして。塩澤政明です。20代のころから服飾デザイナーをしています。今年、67歳になります。

60歳までひたすら走り続けた毎日から、母の介護を機に日々のくらしの大切さに気づきました。
のどかな日常のなかに、たくさんのデザインがあり、人との出逢いから生まれる制作活動があることに気づいて、今は、自分が楽しくできる仕事を大切にしています。目標やなにかよりも、出逢った人のつくりたいもの、欲しいものをカタチにする仕事がとても自分自身の日々を充実させてくれます。

今回は、沖縄で個展をするにあたって、沖縄で出逢ったDoucattyさんの染色独特な色彩に魅されて、この染色を使った布とのコラボレーションはんてんを作りたいと思いついたことが始まりです。

2年、3年かかっていますが、カタチになってきたとき、商品としてただ作るよりも、共感して一緒に楽しんでくださる人、おもしろがって着てくれる人がいてくれたらなと思い、こういうかたちで提案させていただきました。一般のアパレルメーカーで製造する原価ベースでのご提案になります。

大きな組織でのブランドをスタートのようなプロジェクトから、生地やニットの小さな会社での企画。36歳でフリーランスになってからは高齢者のドレス、古い着物をつかったドレスやビスチェが海外で話題になったり、個人の小さなお店のオリジナル商品ラインを作っていったり。たまたまフリーペーパーの一行広告で出逢った人の依頼でメイド服をつくりました。その人からは依頼が続き、その人のビジネスパートナーとして会社を設立しました。(株式会社カシス)43歳でした。創作だけでなく経営をするようになり、、、、と、いろいろなことをしてきました。

63歳で株式会社カシスの役員をやめて、仕事をひとつ、ひとつ若い人たちへ引き継ぎながら手放してきました。

好きなもの、自分が使いたいものだけを作っています。旅が好きで、いるの頃からか、どんなに忙しいときでも、毎年、自分へのご褒美と思って1週間くらいふらりと好きな土地を訪ねて無計画に過ごすようになっていました。

少し長いですが、忙しい日々から、マイペースで充実した日々になるのに、ちょっとした気付き、小さな行動、習慣の積み重ねで人生が楽になり、いろいろな人達との出逢いが楽しくて楽しくて。

歳を重ねていくと、いろいろと健康の問題もありますが、それを乗り越えてでも旅をしたり、ご縁のある人達の想いをカタチにすることが自分のライフワークだったと気づくまでの話を聞いていただければ幸いです。

デザイナーとして生きる

60歳を過ぎて、生活のスタイルを自分の気持にフォーカスできるようになりました。
ひとつひとつ、日々の暮らし、仕事を断捨離してきたら、今のスタイルになってきました。

わたしは、社会に出るとき、すぐに自分のしたい仕事につけなかったので、今、こうして好きな仕事ができて、周りの人たちの役に立てて、また、喜んでもらえて、一緒に乾杯できる日々を送れるようになってよかったです。自分の好きなことをするために手放すこともありますが、歳をとると自分自身が満たされないとつらいだけだと思います。

最初は事務の仕事をしました。

高校卒業して、家の事情で昼間の学校へは行けなかったので市場の事務の仕事をしながら、夜間の文化服装3年通いました。

自分したい仕事をするのにどうしたらいいか。いつも考えていました。
学校へ行く。お金は?働きながら行けばいい。そこがスタートでした。

18歳から21歳は働きながら学校へ通いました。学校終わるときにアパレル業界へ転職しました。
その学校の先生の親戚筋の部長さんと会う機会があって、そこからアパレルの業界へ入れました。

千駄ヶ谷にあった雑貨屋さんで、デザイナーとして働いきました。アルバイトでした。
助手の先生だった親戚が三菱レーヨンに勤めていて。その紹介でグループのアパレルの会社に転職。

当時は、デパートに入ってた自分のブランドでは、15億円くらい売っていた。
自分の疑問を解決するために、もっと、いろいろなことを体験したいと思って仕事を変えていった。

転職8回。

1) 市場(事務) 
2) レーヨン系のアパレル(コート)で3年。会社でヨーロッパ旅行へ。ファッションの最前線を見られました。
3) ブランディングをトータルの仕事ができるアルファーキュービック系の会社。
4) ウィメンズワークスタジオ キャリアの人の服のデザイン。
5) ニットの会社で企画。 
6) いとしょうの企画。ニットの素材の糸。ブランド品のオリジナルニット用の糸をデザイン。
7) 山登りの企画やっている会社。
8) DAKSという衣料系の商社。45億くらいのブランドを担当。

会社員時代には、いろいろなことがありました。
社長にかわいがられて、周りに意地悪されました。(笑)でも、最後は仲良くなって。やめてから今もつきあってる人がいます。不思議なご縁です。今では、意地悪されたこともいい思い出。歳をとることのいい点です。笑

フリーランスになったのは36 歳。  
株式会社カシスを、2000年に創業したのが43歳。
会社の仕事と自分の制作をするスタジオを参宮橋の古いアパートを一棟使ってギャラリーのようなところも併設しました。
松が谷でも、古い店舗あとをスタジオにして、仕事関係のうちあわせ、服を見たいという人が来てくれる場所を。

このころは、ほんとうにいろいろな人の交流が、創作活動につながり、個展なども多くやっていました。

最後は、母の介護をするために柴又の自宅。必要最小限のものだけを残して、今も、ここで仕事をしている。

今まで、たくさんの人達に出逢い、支えられてきた。その出逢い全部が残っているわけではない。

60歳の還暦パーティ(100名くらい集まった) 浅草にあるクラブでやってくれた。
来てくれてありがたがったし、このまますべての人とつきあえると思わなかった。

介護をしていた母が、この年の翌年に旅立ちました。
ひとりになったから、もう頑張らないでいいなーって思ったのを覚えてます。

会社も作っても自分ががんばってるだけでやっていける。
自分がいなくなったらだめになる会社じゃだめですからね。

会社をやめるときに共同経営者も会社を続けたいというので、若いスタッフに今まで以上に、少しずつ仕事を教えて、徐々にひいいて、すべて任せられるようになった業務から抜けてやめました。

メイド服は基本形があるのでスタッフでできるようになりました。まだ、完全に引けてませんが、そこは自分も関わっていることがうれしいものづくり。跡継ぎが育つまで続けたいです。

会社の人たちにも、いつまでもいると思わないでもらうためにもひいいたほうがいい。そのためにも、自分の仕事をしたらいいなーって思いました。

自然な日々の流れに乗ってていったら、なんとなくやっていけると思えるようになってきました。

なにか片付けるとなにか新しいものが入ってくる。
へんに執着してあれもこれもってしがみつくなら、最低限必要なことだけでいいやって思いました。

好きなことだけをしている時間ばかりになっていました。
好きなことならば生きているかぎり、仕事も続けて楽しく生きていけます。確信もてました。

整体や、運動をしながら持病の股関節の痛みをごまかして旅をしてきたけれど、だんだんごまかしがきかなくなっています。

沖縄とか遠いところへは、あと何度行けるかと考えることもある。でも、なんとか歩けるうちは、この足で一歩、一歩、歩み続けたいと思います。

生涯現役の時代を、今までも、これからも集まってきてくれる皆さんと、楽しく生きていこうと思います。よかったら沖縄の個展も、いらしてください。このはんてんを着ている人を見たら、声をかけてください。楽しいことが始まると思います。

デザイナーのデザインは、デザイナーひとりで、自分だけではカタチになりせん。

このはんてんをひとつ作るにしても、布地、袖口の原材料は違う人達が作り出したものです。この布地をはんてんのカタチにするためには、パターンナー、縫製、仕上げの過程で、それぞれの専門の職人さんの技が必要です。

カシスが始まったのも、36歳のとき勤めていた会社を退職して、高円寺のワンルームマンションでフリーランスのデザイナーとして独立したころ、まだ、ネットの無い頃に、フリーペーパーの1行広告を見て連絡したのが始まりでした。

「メイド服をオーダーで作ってほしい」というような内容でした。

連絡をして、そのとき希望のメイド服をつくりました。

それから、何点か頼まれてつくるうちに、当時、会社に勤めながら、メイド服の撮影会などを主催していた人でしたが、ゆくゆくはメイド服の会社をつくって起業したいという話になり、、、

二人で出資して会社を立ち上げました。
メイド服業界をリードするオンラインショップとリアルショップを展開する会社になりました。

キャンディフルーツを展開する株式会社カシスは「アナタの作りたいアパレルつくります」というキャッチフレーズのもと小口ロットでスタートできるサービスをたちあげました。

小さなお店や、会社のオリジナル商品や。

ネットだけで販売する水着だったり、海外展開しているものもあります。
スタートは小さくても、ビジネスは広がりました。

株式会社カシスは、キャンディフルーツの経験を活かして、Eショップのコンサルティング、アパレル商品の開発を2本柱に今も成長を続けています。

株式会社カシス
https://cassis.tokyo/

日々のくらしをきちんとする

数年前、63歳で株式会社カシスの役員を降りて、自由な時間をつくりました。今でも、若手のサポートや新デザインの制作など、自分(塩澤)を必要とする仕事には参加していますが、会社経営などからは一切手を引きました。

今も大好きな「ものづくり」を続けて生きていきたい。

デザインを超えた「ものづくり」の原点をぶれずに生涯楽しんで生きていきたい。

高齢な母が病気で介護が必要になり、会社に出ることを減らして家で仕事をしながら介護をすることにしました。
約3年の介護の経験のなかで、朝ごはんをつくることの大切さを実感しました。母が旅だって何年か経ちますが、朝ごはんは毎日作っています。

この写真を親しい友人に送っていますが、嫌がる人たちはいません。

また、たまに写真が届かない日が続くと「元気?病気してないか?」

「なにかあったの?」というメッセージが届いたりします。

ふだん、おしゃべりしたりしているわけではないのに、ことばもなく届く朝ごはんの写真が、こんなコミュニケーションのある関係を作ってくれています。

野菜づくりも

こんなことをしていると、食べるものの大切さを実感します。

あるとき、知人に誘われて区の家庭菜園の畑を借りて、野菜を作り出しました。たまたま、その一画で野菜づくりしている人たちと話したり、教え合うようになって、自分でも、いろいろなものが作れるようになりました。

今は、そのなかの指導者的な方が「自然農法」を実践できる畑に移ったとき、一緒に写って「自然農法」で野菜を作っています。

雑草を抜いたりしない、ほんとうに、これ畑?というようなのですが、とれる野菜のおいしさは何倍にもなりました。
食べたときに大地の恵み、太陽のありがたさを感じます。

最近はマイペースで仕事してます

週1回か2回の作業で、たまにサボるときがあっても、こんな収穫ができることがとてもうれしいです。

マイペースな日々の生活がもたらした変化が、自分自身にも確信のようなものを持てるようにしてくれました。

若い頃に、ビジネスの目標、課題の数字をとるために、たくさんのデザインをしたり、売れることだけを考えてものを作ったころから疑問に思っていたこと。

自分は、こういうものが作りたくてデザイナーになったのか?

会社では、こういう意見は通りませんが、社外で知り合った友人たちは、みんな同意してくれて、いろいろな話が出てきました。

生活の不安を持ちながらも、こういう人たちが喜ぶことを仕事にして生きていきたいと思ったのが独立のきっかけでした。それから30年以上、その考えは変わらず、ますます、人の想いを実現させることがデザイン。そういうデザインは店頭に並んだとき喜んで買ってくれる人がいます。「こういうのが欲しかった、、、」と、値札も見ないで買ってくれる人ばかりだと聞きます。

1点、1点つくるものなので大量生産の商品にはかなりませんが、でもべらぼーに高いわけではありません。また、デザインも飽きず、生地や縫製もきちんとしているので長く使えます。着ている人になじんできます。

ものづくりの仕事は旅のようです。出逢った人、ものとのコミュニケーションからカタチが生まれて。そのカタチになったひとつひとつのアイテムが、大切に使ってくれる人のもとに届きます。

ここにあるのは、カシスとは別の個人ベースですすめてきた仕事です。会社を退いてからは、とくに自分が実際に追加痛いものを創ることが多くなりました。綿や麻を利用したシンプルな装いや、コースターなどの小物だったり、そういう出逢いのおしゃべりから生まれて、その後、ずっと作り続けているものばかりです。

塩澤商店(オンラインショップ)

塩澤商店

はんてんはロングセラーで、寒いときも、暑いときもちょいとひっかけて、どこへでも着ていけます。袖口にアクセントして好きな布をあしらえるオーダーメイドを受けています。